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世界遺産

天空都市  マチュピチュ   Machu Picchu

     天空都市の呼称で知られるインカ最大の遺跡、マチュピチュ遺跡は 1532 年にインカ帝国が滅亡して、1911年にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見されるまで 400 年近くもの長い間、誰の目にもふれることなく標高 2,400m の山中にひっそりと眠っていた。マチュピチュ遺跡は当初、スペインによりインカ帝国が攻撃を受けた際にクスコから逃れたインカ軍が造った基地とされていたが、その後の調査で既に 1450 年頃には造られていた。

マチュピチュについて                                                             

 インカ文明の観光の拠点“クスコ”から列車で約3時間、その後バスに乗り換え、つづら折りの山道を 6キロほど登ると突然、“天空都市”マチュピチュが目の前に現れる。マチュピチュは 1911 年にエール大学の助教授だった歴史家ハイラム・ビンガムによって発見されるまでアンデスの山奥でひっそりと息をひそめていた。
 標高約 2400 メートルの険しい山頂に立つ空中都市は、その物理的のおかげでインカ帝国の栄華を失うことなく、現在も訪れる観光客を魅了している。



 
発見された当初のマチュピチュは、インカ帝国の崩壊後、征服者のスペイン人から逃れたインカ軍がジャングルの奥地に逃れて造った秘密要塞“ビルカバンバ”だと考えられた。
しかし、インカ帝国の人々が持ち出したと考えられている黄金などが発見されず、マチュピチュ発見から 50 年後にはさらに奥地にビルカバンバとみなされる新要塞が発見され
た。マチュピチュは残念ながら新インカ帝国の伝説の都ではなかった。しかし、クスコではスペイン人によって跡形もなく破壊されたインカ文明の都市がマチュピチュではほぼ無傷の状態で発見された考古学的な価値は計り知れない。インカの精巧な石造りの建築物が残る天空要塞と要塞を取り囲む神秘的な山々は 1983 年、ユネスコの世界複合遺産に登録された。
 マチュピチュはインカ帝国第 9 代皇帝パチャクティの時代に造られたといわれている。確認できる遺跡部分だけでも5㎢はあるが、実際はもっと広かったと考えられおり、現在も調査は進められている。遺跡の斜面は多くのアンデネス (段々畑) がつくられ、ジャガイモやトウモロコシが栽培されていた。この空中都市は岩でつくられた城壁に囲まれて
おり、市街地は広場を中心に宗教的・神聖なエリアと人々が暮らす居住エリアからなっている。なぜこのような山と山を結ぶ尾根上にこのような都市を造ったのか諸説いろいろあるが、現在のところは重要な宗教施設だったという説、王が滞在する都市の1つだったという2説が有力なようだ。 

アンデス山脈に生息する人気者リャマはマチュピチュでも生活している

マチュピチュ遺跡と後方のワイナピチュ山の全景が一望出来る高台は世界中からの観光客で賑わっている。日本からここまで約35時間はかかるが、この見晴台からの絶景はその価値がある。


切り立つ山々に囲まれた遺跡を上空から見ると、コンドルが翼を広げて舞い降りた形が浮かび上がる。コンドルはインカでは神聖な生き物として崇められていた。


マチュピチュ遺跡入口から見て左手高地の市街地の様子。高地には神殿や宮殿が、低地には居住区が建てられていた。これは重要なものほど高い場所に造るというインカの慣習によるものだ。


マチュピチュ遺跡内の建造物の石組みは、どれも堅牢で美しい。目を引く三角屋根の建物は、往時は茅葺屋根だったと考えられている。そして段々畑が点在していて、農地は約3分の2の面積を占めていた。

マチュピチュは施設的に 1000人ほどの人々が居住していたようだが、農地面積から1年間の食物の収穫量を分節すると、自給できる人数は300~700人程度だったと想像される。インカ帝国が滅んでから約500年、マチュピチュは今なお謎に包まれている。